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佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日-1999年4月14日)は、日本競馬会、国営競馬および日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。騎手時代には八大競走で3勝、中央競馬史上初めての通算500勝を記録した。調教師転身後も1975年に全国リーディングトレーナー(年間最多勝利調教師)を獲得、天皇賞(春)優勝馬ヒカルポーラ、東京優駿(日本ダービー)優勝馬オペックホースなどを管理し、通算1074勝を挙げた。騎手500勝・調教師1000勝は中央競馬史上唯一の記録である。 == 経歴 == 1933年、北海道上川郡士別町(現・士別市)に、小作農の長男として生まれる〔『日本の騎手』p.204〕。少年期は教師を志していたが、家計の逼迫から学業を断念〔。15歳となった1933年に札幌競馬場所属の騎手兼調教師・青山市之進の門下となり、同年騎手としてデビューした。しかし翌1934年に青山が競走中の落馬事故で死去し、やむなく青山の後援者であった伊藤繁太郎が経営する牧場で、しばし若駒の育成騎乗者として過ごした〔。この生活の中で騎手の増本勇と知り合い、増本に伴って京都競馬場に移り、その親戚筋である美馬信次厩舎に身元を引き受けられた〔。 移籍後の1935年、新たに京都競馬場でデビュー。秋季開催で初勝利を挙げた。以後急速に頭角を現し、1940年には自己最高の62勝を挙げた。1942年には「東の尾形、西の伊藤」と並び称された名門・伊藤勝吉厩舎へ移籍。この移籍に際しては美馬が激怒し、「二度と競馬に乗れないようにしてやる」と脅されるまでに関係が拗れたが、武田文吾の取りなしで事なきを得た〔『日本の騎手』p.205〕。同年秋、ハヤタケで京都農林省賞典四歳呼馬(現・菊花賞)を制し、クラシック競走を初制覇。翌1943年には伊藤厩舎のミスセフトで中山四歳牝馬特別(現・桜花賞)を制した。 同競走の優勝から3カ月後、太平洋戦争の激化により召集を受ける。10月には北海道千島に送られ、訓練に明け暮れた。1945年8月に終戦、その2カ月後にソビエト軍の捕虜として樺太からソビエト本土に移送され、以後シベリア抑留の身となった〔。 1949年に帰国、佐藤の帰還を待っていた武田文吾が、これに伴って騎手を引退して調教師に転身し、佐藤は新たに開業した武田厩舎所属騎手として迎えられた〔『日本の騎手』pp.206-207〕。復帰2年目から48勝を挙げて健在を示し、以後も関西の最有力騎手として定着。1953年には牝馬レダで天皇賞(春)など3つの重賞競走を制した。しかし同年秋の毎日王冠での競走中、レダが骨折転倒、佐藤も馬場に叩き付けられて右脚大腿骨骨折の重傷を負い、半年間の休養を余儀なくされた〔『日本の騎手』p.207〕。レダはこの事故で予後不良となった。 復帰後の1954年6月20日、阪神競馬でヒサニシキに騎乗して勝利を挙げ、日本の騎手として初の通算500勝を達成した。当年途中復帰ながら36勝、翌年も46勝を挙げたが、年齢から減量に苦労し始め〔、1956年に騎手を引退、調教師に転身した。通算2560戦578勝。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤勇 (競馬)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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